「川西勝久のひとりごと」のバックナンバーです |
2006.作成
謹 賀 新 年(06,01,01)
明けましておめでとうございます。旧年中は格別のお引き立てを賜り厚く御礼申し上げます。本年も倍旧のご愛顧とご指導の程ひとえにお願い申し上げます。
さて、今年はどのような一年になるのでしょうか。今年の干支は、丙戌【へいじゅつ(ひのえ・いぬ)】歳です。この丙戌の干支の表す意味あいはどのようなものでしょうか。丙(へい)とはあきらか、火の燃えて広がるさまを表しています。つまり昨年の乙年はまだ陰気が強く伸び悩んでいましたが、丙になり大きく燃え伸びるということが読み取れます。ようするに、物事が盛んになり大きく伸びる年となります。一方、支の戌(いぬ)は、戊が茂る事を意味すると同様に、繁茂するという意味があります。しかし、繁茂した樹木は、日当たりや風通しが悪い為、樹木を枯れさせてしまいます。これを防ぐには、繁茂した枝葉を剪定する事が必要です。剪定して、風通しを良くし、樹木を元気にさせることが重要なのです。このことから、本年、丙戌(ひのえ・いぬ)歳は、余分な贅肉は剃り落とし、無駄を省いて思い切った改革や大整理をする歳であるといえます。
今年の我社は新しい息吹を注入し新しい事業部門を開設します。米穀業は勿論ですが、新たにアパレル部門と経営コンサルタント部門を開設し、新規事業にも積極的に参画します。そんな中で、従来の体質から、無駄を省き新規事業の新しい風が入りやすいようにしていく所存です。どうか、本年も皆様の大きなご支援と、ご指導ご鞭撻を賜りますよう重ねてお願い申し上げます。尚、写真の子犬は、私の義兄が今年の干支であります犬を書いて送ってくれたものです。子犬のように愛嬌をもって、元気溌剌一所懸命に走りまくる一年にしましょう。
第2回四條畷楠公まつり その1 (06,04,10)
昨年に続き、今年も四條畷楠公まつりが盛大に行われました。このお祭りは、四條畷市の歴史的遺産の一つで有ります,、楠正行公の遺徳を称えるとともに、祀られている四條畷神社が町の発展に欠かすことの出来ないものであることへの感謝をもって開催されます。この祭りを通じて、四條畷市の発展と、地域愛がさらに増進され、我が町を誇りに思い、住んでいて良かった、これからも住みたい。と、繋っていくことを切に念願するものであります。
さて、今年の四條畷楠公祭りは、4月1日(土)の宵祭りと、2日(日)本祭りの2日間で行われました。週間天気予報は、2日間とも雨の予報であり、開催が危ぶまれましたが、どうにか行う事が出来ました。宵祭りでは、四條畷神社会館にて歴史講演会が祭りに先立って開催されました。講師には昨年に引き続き、元四條畷市教育長で、郷土歴史家でもあります櫻井敬夫先生より、「四條畷神社創建にいたるみちすじ」と題され講演されました。会場は150人の聴講者や各新聞社の記者なども詰め掛け、熱気が溢れていました。この講演会は、第1回から継続して開催しましたが、これほどの人が、楠木正行に興味や関心を抱いているとは思いませんでした。この講演会は、四條畷楠公祭りを開催するに当たり、多くの市民の方に、正行公とはどのような人であったのか、四條畷の合戦とは、楠公墓所の楠の木は・・・・・などなど。小楠公と四條畷神社が、私たちの四條畷に与えた影響などを知り、後生につないでいく、このことが重要であり、四條畷の発展に欠くことのできない大切な要素であり、四條畷楠公祭りを真のまつりに育てていく為にも最も重要なものでもありました。四條畷楠公祭りは、ただのイベント祭りではなく、四條畷市民の精神的支柱となり誇りとする祭りにするために、まず四條畷の歴史を知ることからスタートさせて本当の祭りを作ろうとする姿勢であります。これは他にはない、四條畷楠公祭りの特徴の一つであり、これからも続けて行きます。さて、四條畷楠公祭りのメインであります、武者行列はどうなったのか、又、楠公祭りの祭囃子はどうであったのか、これらについては次回に書きます。ただ、雨と雷の中でスタートした武者行列で、「楠正行公」のお気持が見え伺えたことも次回以降申し上げます。お楽しみに。
写真・・・・・・歴史講演をされる桜井先生と会場風景
第2回四條畷楠公まつり その2 (06,04,17)
「四條畷楠公祭り囃子の誕生」
四條畷楠公まつりの宵祭りは4月1日(土)午後から開催されました。桜井先生の歴史講演を初め、旭堂小南陵師による、講談「楠木正行」の公演。市内、南中吹奏楽部による演奏会があり、夕方からは、篠笛奏者、井上真実さんとシンセサイザー奏者の東祥高氏との黄昏コンサートを開催。井上さんと東さんとのコンサートは昨年に引き続いて行われました。
この東氏と井上真実さんとの出会いが,今から思えばとても不思議な出会いとなるのです。昨年4月の第1回楠公まつりの企画が平成16年11月からスタートしたのですが、楠公まつりは100年、200年続いて行くような立派な祭りにしたい。単なるイベント祭りではなく、未来永劫四條畷市民が愛し続け、誇りとする、そして未来の日本を背負う子ども達が中心となる本格的な「まつり」を興したいという強い信念から始まりました。そんな中で偶然に東氏、井上真実さんの篠笛コンサートを入れる企画が出てきました。無理をお願いして、唱歌「四條畷」「青葉茂れる櫻井の」の演奏を条件に出演を依頼したところ、快諾を得、コンサートが実現したのです。他の企画と平行して、私の想いは、真の祭りにはそれに相応しい祭囃子が必ず必要であるという事が頭から消えません。どうしてもお囃子がほしいと強く念願しているところに、このお二人に出会ったのです。偶然と言うよりも、必然的とも思える出会いでありました。
そして第2回四條畷楠公まつりに、遂に祭り囃子が出来たのであります。お囃子は3曲作りました。一つは、お祭り全体を表す「楠公まつり囃子」、2つ目は武者行列時に使う「楠公行列囃子」、3つ目は祭りのクライマックスであります、「喜びの舞」とともに奉納する「楠公まつり奉納祝い囃子」であります。
この3曲は、勿論東氏の作曲で昨年9月ごろ完成いたしました。早速11月より練習が始まったのですが、篠笛隊、太鼓隊、踊り隊の主役はすべて小学生であります。篠笛の指導は井上真実さんが直接指導していただきましたが、子ども達の適応能力には頭が上がらないものでした。素晴らしいの一言であります。つづく
写真・・・・井上真実&Azumaユニット黄昏コンサート
第2回四條畷楠公まつり その3 (06,05,01)
3曲の四條畷楠公まつり囃子は、小学生を中心に中学生や大人の人たちが参加しました。篠笛は自前で購入し、笛の吹き方を一から練習したのですが、子ども達の上達には驚きました。これも、井上真美さんの適確な指導と情熱であり、子ども達の、自分達が祭囃子を演奏するのだという強い信念であると実感しました。篠笛隊と平行に、太鼓隊も子ども達の協力で出来てきました。そして、奉納祝囃子の曲で踊りもあわせて奉納する事となり、女子小学生達による踊りの練習も始まりました。合同練習は、4回ほどしか出来ませんでしたが。当日は見事にやってくれました。
4月2日本祭り当日、朝から小雨が降っていましたが実行委員会の判断は祭りは決行。午前10時前には、武者行列に扮装する子ども達や、稚児行列参加者が次々と衣装を身に着けて、出発地であります楠公墓所へ集まってきました。11時過ぎには雨脚も強くなり3〜4歳ぐらいの稚児達の足もとはもうズクズク。昼12時まで子供達を墓所内で留める事は無理と判断し、予定を繰り上げて11時40分の出発を決め、予定変更の説明をしようと墓所の大楠の前に出た瞬間、大轟音とともに雷が1回鳴り響きました。昨年の第1回楠公まつりの時も、武者行列が終わり、黄昏コンサートが始まったとたん、一発の雷が四條畷神社に鳴り響いた事を思い出しました。そして今年も。その瞬間、「あ!今年も正行公が降りてきて下さった。」そう直感し、そして「正行公はお喜びである」と直感したのです。不思議な事に、あれほど降っていた雨が、嘘のように引いて行き、当初の予定通り12時にお囃子隊を先頭に武者行列がスタートして行きました。(つづく)
写真・・・・・楠公墓所を出発した武者行列
第2回四條畷楠公まつり その4 (06,05,08)
あれほど降っていた雨も、嘘のように小康状態になりました。一時は、中止も止むを得ないと諦めていた武者行列がスタートしたのです。今年から、四條畷楠公まつりに、祭り囃子が出来た事は前述したとおりですが、祭りには皆でお囃子を演奏するのだと、小さな子供達が真冬の寒空の中を通って練習して来た。そして誰もが楽しみに待ちに待ったその瞬間が、雨で中止では可哀想と思っていただけに、武者行列がスタートした時は涙が出そうになった。そして、行進のお囃子が鳴り出した時は本当に感動して涙が溢れ出したのです。
お囃子演奏隊を先頭に出発した楠公祭り武者行列は、お囃子隊25人、踊り隊10人、鎧兜武者4名、鎧烏帽子姿武者15名、武者烏帽子姿18名、少女武者姿10名、少女物詣姿10名、それに久子の方、侍女などの合計77名。それと幟や旗などの大人が50名、稚児50組と付き添いなどで130名、青年団の御輿隊の60名。総計300人を超える大行列となりました。
今年の正行公は、美田町の宇野遼介君、正時には岡山地区の福本亮君、和田賢秀には米崎町の園田裕樹君、正家役は南野の濱口浩之君がそれぞれ扮してくれました。行列囃子にのり、初初しさと力強さのみなぎった姿は、大役の緊張感からか、一段と凛々しさが伝わってきました。そして、小学生達が主役であり子供達が作り出した行列は、太平記の歴史絵巻がよみがえる素晴らしい武者行列となったのです。
四條畷楠公まつりは今スタートしたばかり、回を重ねるごとに、より立派になり、子供達は勿論のこと、四條畷市民の憧れと喜びの祭りとなるでしょう。そして誇り高き祭りとなる事を確信するのです。第1回も雨、第2回も雨となった楠公まつりでしたが、ともに一発の大轟音の雷は、楠木正行公のお喜びの表現と固く信じています。正行公は大喜びなのだと。だから、雨の中のまつりであっても不思議と気にならない私でありました。まだまだ改善点や問題も多くありますが、次回以降も町一丸として育んでいけるよう頑張って行きたいと思うのです。
写真・・・・・兜姿も凛々しい武者行列風景
幼気な小学生の死と教育 (06,05,29)
秋田県の小学1年生男児が殺害された事件が報道されている。下校時の事件であり、最近にも小学生女児が殺害されガスこん炉の空き箱に入れられ遺棄された事件もあったばかりである。 それにしても、何故こうまで幼い子どもが殺されるのか。近年特に子供が犠牲になる事件が多すぎるとは思いませんか。親に殺され、変質者に殺され、同級生に殺され、社会に殺される。今の子供たちはどうしてよいのかわからないと思います。テレビ報道は子供が殺害された殺人事件として異常なぐらいの加熱した報道を繰り返す。独自の捜査や聞き込みをして、警察の捜査をも上回る情報を視聴者に伝える。所謂、探偵ごっこの域をでないもので、誰が犯人なのか、その動機や手口は、などなど、事件の解明に躍起となるだけで、根本的な解決には至らない。その事件に対するニュースバリューを利用した、視聴率アップねらいの報道に過ぎないのである。幼気な子供が殺害される悲惨な事件は後を絶たないが、その原因の根本は個々のことよりも、もっと大きな社会的要因、現代社会の病的要因からなると思うのです。国会では新教育基本法の制定に、的外れな、ピンぼけした論争を繰り返している。現代社会に於て、今、深刻な問題は、老若男女を問わず心の病気が大きな問題なのです。親が子を殺す。異常者が子供を追かけ殺す。交通事故を起こせば、適切な判断処理が出来ない。大手企業経営者は利益追求のためにはなんでもする。テレビ局も同様。政治家は国家の尊厳も国益すら守れないレベル。全てがおかしい事に早く気づくべきであります。こうした悲惨な事件が頻発する裏には、人としての資質や特質が教育されていない現代の教育問題が大きくのしかかっているのです。今、言われている愛国心を持つ教育が大事なのです。自国を愛せる者は、必ず地域、家庭を愛し、大切にするのです。親を愛し、友を愛することも出来るのです。国家をあいすれば他国をも愛せるのです。これを子供のときに身につけさせる、これが重要なのです。テレビキャスターや評論家達は愛国心など教えなくても自然と持ち合わせているもの、教えなくても良い。なんて分ったようなことをいうが、教育基本法は、まだ何も分らない子供をどうして立派な人格者に育てていくか、その教育のあり方を示す物であり、人生を半分以上過ぎた者の価値観でいうべき事ではないのです。今の日本を根本から作り直すのには、今の子供たちを正しく清く、年寄りを大切にする、後輩を労わる、孝行を尽くせる、そう言った道徳教育を重点とした教育が重要なのです。そして今、徹底して教えれば、20年後30年後には心の病のない強い精神と人を愛す思いやりのある国民となるのです。今、早くきっちりとした新教育基本法を確立し、それを遂行できる教師によって子供たちを教育してほしいと願うのです。そうでなければ、いつまでもこのような悲惨な事件は後を絶たないのです。
君が代の替え歌流布 (06,06,05)
5月29日の産経新聞朝刊に「君が代の替え歌流布」の記事が掲載された。読んでみて愕然とし、怒りを通り越し、現在の日本の教育現場に落胆と深い失望を抱いた。
内容は、英語歌詞で君が代の発音にそっくりに作られているという。読まれていない人も居られると思うので、掲載された記事の一部を紹介すると、「卒業式、入学式での国歌斉唱が浸透するなか、君が代の替え歌がインターネット上で流布している。従軍慰安婦や戦後補償裁判などをモチーフにした内容だが、本来の歌詞とそっくり同じ発音に聞こえる英語の歌詞になっているのが特徴で、傍目には正しく歌っているかどうか見分けがつきにくい。」とあり、全国規模で卒業式や入学式で国旗掲揚、国歌斉唱に反対するグループのホームヘージに掲載されていると言う。また、「心ならずも『君が代』を歌わざるを得ない状況に置かれた人々のためにこの歌がある。」と反対派のホームぺージに掲載されていると言うのである。この全国規模で卒業式や入学式で国旗、国歌に反対するグループとは、教員組合のことである。また、心ならずも『君が代』を歌わざるを得ない者といえば、学校の先生の事なのである。要するに、学校の先生たちは、式典において、同じ発音で意味の全く違う歌を歌っていることになるのである。そうだとしたら、最早これは教育者の縫い包みを着た狼である。教育に対する冒涜であり、純粋な子供の精神を欺く犯罪行為であるといえよう。国家の指針に基づいた教育をしているかのように見せ、従順忠誠を装い、腹の中は牙をむいた狼そのものであるのです。誠に恐ろしい事です。これでは日本は本当に危ういものとなり将来はありません。今、新教育基本法が国会で議論されていますが、どんな素晴らしい教育基本法が出来ても、今の学校現場のままでは絵に書いた餅同様、中身の無いものとなってしまいます。新法が出来ても安泰とはいかない今の日本の現状に大きな不安を抱かざるを得ません。
中江藤樹先生の小川村を訪ねて (06,07,10)
去る7月2日日曜日に耕心塾の野外研修を開催しました。年一回の野外研修ですが、観光バスを使った遠距離研修会は隔年に開催しています。今回は、滋賀県高島市安曇川町小川に有ります、藤樹書院並びに藤樹記念館を訪れました。この地は、近江聖人と称せられる中江藤樹先生ご生誕の地であります。耕心塾開講以来、孝経を学びましたが、中江藤樹先生は孝道を心から実践された人として、最初にお話を聞きました。以来、先生のお生まれになりました小川村に行き、少しでも先生を偲び、先生の教えに触れ学ぶ事ができたらと念願をしていましたから、今回の研修も最高の喜び多い研修会になりました。当日は近畿地方は雨の予報があり、出発までは雨が降っていました。しかしバスに乗り込むまでは雨も上がり、車外での行動中は雨に降られる事もありませんでした。
藤樹先生は、1608年(慶長13年・関が原合戦の8年後)にこの小川村にお生まれになりました。ご両親は農民でありましたが、9歳のときに米子藩に仕える祖父の養子となり、その後藩換えで四国の大洲に移り、11歳のとき学問に志して勉学に励まれ、立派な武士として成長されました。しかし、郷里に住む父が亡くなり、寂しく暮らす母を思い、脱藩して小川村に帰る事にしました。この時、先生27歳でありました。以来41歳の短い生涯を通じて、多くの門弟や村人に人の道を説き導いてこられたのであります。近江聖人、藤樹先生は、現在も人々が尊敬しその教えであります孝養の精神は日本人の最高の生き方であり最も尊い徳であります。私達は藤樹先生のご高徳に学び崇敬の念を表し、藤樹書院の先生位牌の前で「孝経」を素読させていただきました。その後、藤樹記念館に移動し、中江彰館長から「藤樹先生の教えにまなぶ」と題され、講演を拝聴し、会館内を見学し、隣接している藤樹神社にお参りする事が出来ました。昼食後は、功名が辻で放送されている、長浜にも立ち寄り楽しい研修となりました。念願の藤樹先生の故郷、小川村に行く事が出来、先生のお墓もお参りでき、最高の喜びとなりました。
写真・・・・・藤樹先生御墓所